【栄枯盛衰】「ぷよぷよ」生みの親の今

【栄枯盛衰】「ぷよぷよ」生みの親の今

ぷよぷよ』(Puyo Puyo)は、コンパイルが開発し、1991年10月25日に徳間書店インターメディアから発売された落ち物パズルゲーム。また、本作および以降の作品(ぷよぷよシリーズ)にブロックとして登場するスライムタイプのモンスターの名前でもある。どちらも縮めて「ぷよ」とばれている。…
76キロバイト (11,358 語) – 2023年11月30日 (木) 11:39

(出典 www.pinterest.jp)
「ぷよぷよ」の誕生から現在までの流れを初めて知りました。セガが10億円で「ぷよぷよ」の権利を手に入れたわけですが、本当にいい買い物をしましたね。

1 もん様(茸) [CN] :2023/12/11(月) 11:19:13.21 ID:5YQBPzfc0● BE:421685208-2BP(4000)

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ぷよぷよ生みの親、売上高70億円の絶頂からわずか一年で「ぷよ」のように会社はじけ人生一転…「ぷよの縁」再びゲーム開発の世界に

倒産の理由はいくつかある。本業のゲーム開発で「ぷよぷよ」に続くヒットを生み出せなかった。経理は社員任せで、決裁書類はきちんと中身を確認せずに判を押した。社内に大所帯を束ねる力量や経験のある人材はおらず、会社の成長戦略もなおざりだった。「東京と違い、地方では情報も限られる。井の中のかわずだった」

生活は激変した。首都圏のアパートを転々としながら、夜の工事現場で警備員をしたり、専門学校でゲーム理論の講師をしたりして、食いつないだ。親から仕送りも受けた。ゲーム開発からは足が遠のいた。
 転機は12年に訪れる。専門学校の上層部と衝突し、講師を辞めた。「落ちゲーをもっと進化させたい」。そんな思いから再びゲーム開発の世界に戻った。
 新たな挑戦を助けてくれたのも、やはり「ぷよぷよ」だった。「あの仁井谷です」。企画を見てもらおうと任天堂に電話すると、担当者が東京まで足を運んでくれた。開発費500万円の借り入れを申し込んだ金融機関の担当課長は、試作品をプレーして言った。「昔ぷよぷよで遊んでいました。ぜひともこれを世に出したい」

今は千葉県内にある家賃5万円のアパートに住む。オンラインで囲碁の対局をしたり、趣味のギターを奏でたりしながら、次回作の構想を練る。
 コンピューターゲームで対戦する「eスポーツ」が五輪競技になる日が待ち遠しい。「自分の作品で世界一になった選手に、自分の手で金メダルをかけたい」。その夢がかなう日は来るだろうか。

 林尭志(はやし・たかし)記者 2012年入社。西部社会部を経て、今年5月から東京科学部。小学生の時にスーパーファミコン版の「ぷよぷよ」で遊んだ。取材を機に実家の押し入れから探し出してプレーしたところ、6連鎖が限界だった。36歳。

https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/8809b2b3986920bcb2fbc176cfbf17abc1227435&preview=auto

(出典 i.imgur.com)

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